00.このとき越えた大分水嶺
地図00−24.野麦峠(長野県)
さて野麦峠である。知名度は日本一。幼い子供は別にして恐らく日本人のほとんどが知っているだろう。
以下、山本茂実著、角川文庫『あゝ野麦峠』冒頭の部分である。
――日本アルプスの中に野麦峠と呼ぶ古い峠道がある。
かつては飛騨と信濃を結ぶ重要な交通路であったが、今ではその土地の人にさえ忘れ去られた道になっている。
また「野麦」という名から、人は野生の麦のことかと思うらしいが、実はそうではなくて、峠一面を覆っているクマザサのことである。十年に一度ぐらい平地が大凶作と騒がれるような年には、このササの根元から、か細い稲穂のようなものが現れて、貧弱な穂を結ぶ。これを飛騨では野麦といい、里人はこの実をとって粉にして、ダンゴをつくって、かろうじて飢えをしのいできたという。――
地図24−a.分水嶺の流れ 境峠から野麦まで
左の地図中央の枠内の部分である。境峠から西へ”月夜沢峠”を越えて鎌が峰まで。長野県を南北に分けた横断はここで終わる。そこから野麦峠へ向かって北上することになるが、西側は岐阜県高山市高根町野麦、東側は長野県松本市奈川となり、野麦峠は東西も両方とも市ということになる。
余談になるが、平湯温泉と中ノ湯を結ぶ安房峠は黄葉が見事で、穂高の釣尾根(奥穂高・前穂高の間の尾根)が真正面に見える(上半身だけだが)ことから、安房トンネル開通後もここだけは峠を越えることにしていた。この峠に松本市・高山市の標識が出ていて驚いたものだ。野麦峠にも同じような標識が出ていて、驚いている人がいるだろう。
24-b. 月夜沢峠
『月夜沢峠』、何とも爽やかないい名前である。境峠から鎌ヶ峰まで北側は松本市、南側は東側がほんの少し木曽郡木祖村、西側の大半が木曽郡木曽町。何もない山の中の大分水嶺を越える峠ある。沢の名称として北にも南にも「月夜沢」の名がある。ここまで書いてしまうともう文にする材料がなくなってしまう。
郷土出版社刊・『信州百峠』(1995刊)に次のようにある。
――慶長年間(1596〜1614)、木曽福島に幕府直轄の関所が設けられた。関所の通過には通行手形を必要とするなどの取り締まりが強められたため、この道(月夜沢峠)はしばしば松本と木曽福島以南を結ぶ間道として利用された。間道利用は月夜に通ることが多いので、誰いうとなくこの峠を”月夜沢峠”と呼ぶようになったという。…略…明治以降関所の廃止に伴い、公に通行できるようになったが、いかんせん山深い峠越えである。無事安全を願って明治21年、末川・奈川の両村が協力してこの峠の大改修を行った。
たよりなき道も開けて月夜沢
末頼もしき奈川 末川
昭和52(1977)年には、自動車の通れる村道として改良され今日に及んでいる。――
24-c. 鎌ヶ峰・長野県横断終了
月夜沢峠から西方3.4Km強の地点”鎌ヶ峰(2121.3m)”で、大分水嶺は”長野・岐阜県境”に達する。かくして八ヶ岳連峰・赤岳から始まった大分水嶺の長野県横断はここに終了。私がWeb地図で測ったところによると、その間の直線距離69.8Km、延べ173.5Km。延べ距離数が直線距離の2.5倍に達するのは、日本海流域が奈良井川源流として、木曽駒ケ岳の中腹まで入り込むのが大きい。右の地図の[経ヶ岳・木曽駒中腹・境峠]に該当する。
なお鎌ヶ峰付近の地図に見るように、月夜沢峠の方からやってくる大分水嶺が岐阜県境に達するのは、そのピークより少し南方となっている。いうまでもなく、これは鎌ヶ峰の山頂部が長野・岐阜県境に沿って南北方向に長くなっているためである。このよういわゆる尾根と尾根との交点は、近くのピークと一致することは珍しい。このあと大分水嶺は北へ進路を変え野麦峠へ向かう。
24-1. 野麦峠
桐原書店、井出孫六編『日本名百峠』より野麦峠。
――交通機関が未発達だった時代、峻嶮な峰と峰との鞍部を狙って開かれた峠道は、他の地域とは比較にならぬ重要性をもって人々の生活を支えていたに違いない。乗鞍岳と木曽の御岳との間の野麦峠が、すなわち往時の信州と飛騨とを結ぶほとんど唯一のメインストリートだった。標高1672m、長野・岐阜の県境上にあって、長野県南安曇郡奈川村川浦(現・松本市奈川)と岐阜県大野郡高根村野麦(現・高山市高根町野麦)とを結ぶ。野麦とはクマザサのこと。ササの実さえ麦と思って食料ににしなければならぬほど山の民の暮らしは貧しかったのか。
松本側のバスの終点・川浦から林道を登ると笹ヤブに覆われた急坂の道が分かれる。これがあのボッカたちの野麦街道だ。一時間ほどで突然視界が開け平坦な場所に出るが、ここが野麦峠だ。石碑、指導標、案内板が林立し、木蔭などにひっそりと地蔵が立つ。檜皮葺のお助け小屋も二階家になってそこにある。東側は松本平も木曽も広々と望めるが、西はまだ山ひだが幾重にも重なり、高山はまだ遠い。逆に登ってくれば、この峠は飛騨から東へ開かれた、たった一つの窓。故郷の出口であり、異国への入り口である。
明治、この国の「近代化」が、野麦峠に活況と華やかさをもたらす。急成長する資本は大量の労働者を必要とした。その供給源の範囲は日本の尾根を越えて広がった。貧しかった飛騨は、娘たちの労働によって現金を獲得しなければならなかった。現金が人間を打ちひしぐ哀しいエピソードは、『ああ野麦峠』に溢れている。――(布川欣一)
24-2. 長野県史跡 旧野麦街道 昭和59年3月1日指定
長野県史跡 旧野麦街道
昭和59年3月1日指定
この街道は、飛騨の高山から野麦峠を越えて、寄合渡・
境峠を通り木曽の薮原に出たものだったが、江戸時代中期
に黒川渡から入山峠を越えて、梓川沿いに松本に至る道が
開かれ、これも「野麦街道」と呼ばれた。
江戸時代には、天領飛騨国代官所所在地であった高山と
江戸とを結ぶ幹線道路として公用に使われるとともに、尾
張藩から「尾州岡船」の鑑札を受けた牛方等により、信濃
から飛騨へ米清酒などが、飛騨から信濃へは中南信地方の
歳とり魚としての鰤(飛騨鰤と呼ばれた)等の海産物や曲
物、白木などが運ばれた道であった。
明治4年(1871)の廃藩置県で飛騨国は筑摩県に編
入され、県庁(松本市所在)と支庁(高山市所在)とを結
ぶ連絡路として、また、岡谷・諏訪地方の製糸業が盛んな
頃は工女の往来する道でもあった。
このように、飛騨国と信濃国を結ぶ公用道路として、ま
た文化や物資などが交流した道としても重要な街道であっ
た。
野麦峠からワサビ沢までは、当時の街道の面影をよく留
めており、その歴史とともに貴重であり県史跡に指定した
ものである。
長野県教育委員会
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24-3. 野麦峠スナップ
野麦街道スナップ1
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野麦街道 |
避難石室
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解説文 |
野麦街道改良記念 道祖神 |
”21.権兵衛峠”の項で触れたが、1992年10月に”権兵衛峠”を走ってみようと思った。峠道の入り口まで行ったが、”通行止め”の標示が道を塞いでいた。そのまま引き返すのも芸がない。その足で訪れたのがここ”野麦峠”だった。写真はすべてそのときのものである。そのときは一旦松本へ出て、梓川沿いのいわゆる上高地線を走った。上の梓川沿いの”旧野麦街道”を走ったことになる。
上の4点は、県道39号が野麦峠への上りにかかるあたりの道沿いにあったもの。1、旧麦街道、2,避難石室。3、解説文、4、改良記念碑。すべて現在ストリートビューで確認できる。こんなところだったのかと驚く思いである。
野麦街道スナップ2
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信飛国境 |
あゝ野麦峠
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野麦県立自然公園 |
ああ飛騨が見える |
旧の麦街道指標 |
峠は意外と広く標識や五輪塔が並び、”ああ飛騨が見える”の像が真新しかった。1つ1つ別々に撮ったため、それぞれが点在してるように感じられるが、まとまって立っているのを見てそうだったのかと思う。
24-x 御嶽山余聞
1. 飛騨御嶽尚子ボルダーロード
御嶽山北麓の県道435号を走っていて、”飛騨御嶽尚子ボルダーロード”なる碑に出会った(写真左)。多分、Qちゃんがここで高所トレーニングをした記念の碑だろう。”ボルダ―”とは、アメリカの高地トレーニング地・ボルダーに因むという。現地地図。
碑の後方に見える山は乗鞍岳である。大分水嶺が越えている。しかし御嶽山は大分水嶺が越えているわけでもない。直接つながるものは何もない。いまなぜ御嶽山なのか。実はここで碑に向かって立って、180度うしろを振り返れば、三角形の不思議な山が聳えている。見慣れない山だが、御嶽山と考える以外この辺りにこんなデカイ山はない。それにしても不思議な形だ。
2. 御嶽山?
左がその不思議な三角形の山である。”Qちゃん碑”を前にして後ろを振りむくとこの山が聳えている。ワイドを使ったので写真ではさして高さは感じられないが、現場では圧倒的な迫力があった。いまどきのことだから”そびえる”でいいのだろうが、ここだけは”聳える”を使いたくなる。この辺りでこんな高さの山は乗鞍(3027m)か御嶽(3067m)しかない。その乗鞍は上のQちゃん碑の左側に見えている。となれば残るは御嶽山でしかないのだが、これが本当に”御嶽”だろうか。
いつも見ている御嶽山は横に長い尾根を見せている。例えば、木曽駒から。開田高原から。常識的なアングルで見る御嶽山はすべて横長の台形である。で、御嶽山の是非は別にして、とにかく”Qちゃん碑”の前からこの山が見えたことは紛れもない事実だから・・・ということで撮ってきたのが左の写真である。これが本当に御嶽なのか。タイトルの”?”はその意味である。
3. 谷文晁の御嶽山
今度、このページを作るにあたって、文晁も御嶽山を描いていたことをふと思いだした。『日本名山図会』のページをくって驚いた。Qちゃん碑の前から見ら御嶽山とウリ二つだったのである。例によって水平方向には何分の1かに圧縮されてはいるが、これが当時の画家の当り前の手法だとしたら、山そのものはそっくりである。水平方向への圧縮に違和感を持たれる方もおられようが、とにかく水平方向の尾根が描かれていないことは事実である。
*「水平方向の圧縮」については、詳しくは『谷文晁・超広角の世界』をどうぞ。
4. やっぱり御嶽山だった
上の写真2の下半分をカットして、残った山の部分をタテ約3倍に引伸ばした。これが左の写真である。頂上の尖り加減、左斜面の傾きの具合、さらに言えば右斜面に見える小さな段差まで『文晁の御嶽山』と見事に一致している。
両者比較。違うところといえば写真の下半分の森に遠近感がないことだけ。
話がこのようにつながると、江戸時代の文人谷文晁(1763〜1841)がここへきて御嶽山をスケッチしたということになる。と考えたくなるが、それはちょっと早計だろう。文晁がここへ来たとは思えない。この飛騨御嶽尚子ボルダーロードは新県道のそばに立てられている。私が使っているカシミール用の地図はもう20年ほど前の地図だ。それにはいまの新しい県道は載っていない。
5. 谷文晁の御嶽山見取筆録地点
前述したように御嶽山のピークは南北に連なっている。それを東西方向から見ると横に長い台形に見える。谷文晁はそれを南北方向に見て単一峰として描いている。左の地図の赤い直線は、御嶽山の主峰”剣ヶ峰”といちばん北に立つ”継子岳”を結んでそれを北へ延長したものである。その赤線が行きつく先にある”高根乗鞍湖”はもちろん人造湖で江戸時代にはない。文晁の御嶽山から流れ出てくる渓流は高根乗鞍湖が渓谷だった谷筋(飛騨川上流)へ流れ込んでいたはず。そのあたりを目途にカシミールで作図させてみた。『文晁見取筆録地点』とあるのがその場所である。”見取筆録”というのはいまでいうスケッチである。(文晁筆録/カシミール図)両者比較。
近くには旧野麦街道が通っている。上で見た『長野県史跡 旧野麦街道』に”・・・・江戸時代には、天領飛騨国代官所所在地であった高山と江戸とを結ぶ幹線道路として公用に使われるとともに・・・・”とあるように、当時としては重要な道路が通っていたようだ。風景の情報も道行く人から求めることも可能だったはず。
ただ一つ不思議なことに、文晁がこの野麦街道を歩いたとしたら、野麦峠から乗鞍岳を描いても不思議でなかったのだが。残念ながら『日本名山図会』にそれは含まれていない。そこで生活しているならともかく、通れば必ず見えるというものでもなし、私もそこへ3,4回は行っているが、上述のQちゃん記念碑前から見たのが一度だけだった。なお現在の国道361号の木曽福島から野麦街道との出会いまでを江戸時代には「飛騨街道西野通り」と呼ばれていたらしい。出合から向こう高山までは野麦街道と呼ばれていたいう。
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